投資信託のコツ教えます
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投資信託のリスクとリターンの考え方
投資の世界では100%確実という言葉が当てはまるものは少ない。株価は日々変動するため将来の株価がどうなるかを期待したり予想したりすることはできるが、必ずしもその通りになるとは限らない。予想どおり値上がりして利益を得ることができるかもしれないが、値下がりで損失を被るかもしれないわけで、その不確実性をリスクと呼ぶわけである。投資信託は、株式、債券のように価格の変動する商品に投資するため運用成果が100%確実に保証されているものではない。したがって、投資信託のリスクとは、運用が期待通りの成果(リターン)をあげることができなくなる可能性のことである。
一般的に、高いリターンを目標に掲げているファンド程、その分だけリスクも高く(ハイ・リスク、ハイ・リターン)期待した成果を達成できなくなる可能性も多くなる、反対にリスクをできる限り抑えて運用する方針のファンドに、高いリターンを期待することはできない(ロー・リスク、ロー・リターン)が、目標とする成果を達成できなくなる可能性は少ないというもの。高いリターンが期待できて、かつ、リスクも低い(ロー・リスク、ハイ・リターン)なんていう上手い話はそうあるものではないと覚えておきましょう。ちなみに、銀行預金は(最近は銀行も倒産する時代ですから、保険でカバーされている一行あたり1千万円までに限定されますが)100%確実に期待に応えてくれますが、リターン(利率)は雀の涙程度であることはご存知のとおり。
リスクとリターンの関係
一般に、高いリターンの期待できるファンドのリスクはより高い傾向にあります。ハイリターン・ハイリスク、ローリターン・ローリスクの関係にあるということをしっかり覚えておきましょう。リスクが低く高いリターンが期待できるといった都合のよい金融商品はありません。
ハイリスク・ハイリターン、ローリスク・ローリターンの概念を図にすると次のようになります。
株の征服によって「征服王」と呼ばれるようになり、コンスタンティノープルはイスタンブールと改称され(正式な改名は1922年)、オスマン帝国の新しい首都となった。正教会に対しては多くの聖堂をモスクに改造して抑圧策をとる一方で、人望の篤い修道士であったゲオルギオス・ゲナディオス・スコラリオスをコンスタンティノープル総主教に任命し、正教徒の懐柔にあたった。
この影響によりジェノヴァ、ベネチア等の地中海貿易で栄えていた都市国家は、その権益をオスマン帝国に奪われる事になり、イタリアの一地方都市へと転落して行く。彼の国の航海士達の多くは、後にスペインやポルトガル等のイベリアの新興国家に移り、大航海時代に大活躍をする。また、キリスト教徒にとってコンスタンティノープルは重要な聖地であり、それをイスラム教国家であるオスマン帝国に奪われたという事は、結果として教皇の権威失墜を意味し、後の宗教改革への胎動のひとつとなる。東ローマ帝国への援軍に消極的だったバルカン半島諸国は、後にオスマン帝国に滅ぼされるか、ハプスブルグ家の傘下になるかの何れかの道を辿り、本格的な独立を回復するのは20世紀になってからである。
以上を踏まえ、この事件は単に一帝国の滅亡に留まらず、世界史が中世から近世へと代わった重要な転換点だった事になる。
人類は互いに交流する動物である。古代からシルクロード沿いなどに勃興した国家や地域を介して物や文化がユーラシア大陸の東西間で細々と伝播されていたが、その遠大な距離は両者の直接的な交流を長く阻んでいた。
株のころまでヨーロッパ人が思い描く世界は地中海周辺やエジプトさらにアケメネス朝ペルシャが支配するオリエントの一部に過ぎなかった。アレキサンダー大王の東方遠征によってインドや中国がヨーロッパ人の世界観に加えられるようになると、僅かではあるが東西間の人々の間に直接的な出会いも発生するようになる。後漢書等の古文書に太秦国(ローマ)や安敦(ローマ帝国皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス?)の記述が見られ始める。ちなみにアントニヌスは宿敵・パルティア挟撃のために後漢に使節を派遣したと伝えられている。
その後、東西の直接的な交流が順調に発展したわけではない。ローマ帝国の滅亡により統一性を失ったヨーロッパ社会は、ゲルマン人やそれに続くノルマン人の侵入によって混乱を極めた。ついで8世紀にイスラム勢力にイベリア半島侵入を赦し、ヨーロッパは狭い領域に押し込められ暗黒の時代を迎える。こうした混沌としたヨーロッパ社会に東西交流を推進する余裕はなかった。
ipoに成立したゲルマン諸国家は数世紀を経て淘汰洗練されていく。強大なフランク王国が出現しカトリックを基盤とする価値観を共有する現代の系譜につながるヨーロッパ社会が成立し、経済が発達して富が蓄えられ外界に目を向ける余力が発生した。
11世紀後半、セルジューク朝トルコによるパレスチナ征服をきっかけにビザンツ帝国はローマ教皇・ウルバヌス2世に援軍を要請した。聖地回復のため十字軍結成が各地の王侯貴族に呼びかけられ大軍勢が教皇の元にはせ参じた。十字軍の遠征には純粋な宗教目的のほかに欲望に満ち溢れた目的もあった。教皇は東方教会への影響力拡大を望んでいたし、王侯貴族は領地拡大やイスラムからの収奪を目論んでいた。王侯貴族の祖先達がローマ帝国や敵対勢力から気ままに切り取ってきた土地は、人口増加や秩序が安定したことによって残り少なくなっていた。一方、隆盛を極めるイスラムの支配地には野心をそそる富があった。
野心家や無頼漢さらには狂信者をも参加した十字軍は1096年、怒涛の快進撃でパレスチナやその周辺を占領し多数の国家を建設した。その後態勢を整えたイスラム勢力の反撃が開始されると戦局は一進一退をくり返すようになった。長引く戦争によって十字軍に内紛や腐敗が蔓延り、戦費調達のための重税に絶えかねたヨーロッパ本土の人民や土地は疲弊し、それにペストの大流行が追い討ちをかけ、ついに兵站の確保もままならないヨーロッパ勢力は聖地から後退し駆逐されてしまった。
個人向け国債の派遣はこのように失敗したが、皮肉なことに戦争によって東西交流が進み、ヨーロッパ商人とイスラム商人が盛んに交易するようになって経済が発展した。ヨーロッパから鉱物資源や毛織物等が輸出され、イスラムから香辛料や絹などの交易品がより安価にヨーロッパに流入するようになる。特にヨーロッパとオリエントの中間に位置するビザンツ帝国やイタリアの商業都市の経済発展が著しく、好景気に沸くイタリアでは、ルネッサンス運動が興って文化や科学技術が発展した。
モンゴル帝国がイスラム諸国を征服すると、ローマ教皇やヨーロッパ王侯貴族は国情視察を兼ねてモンゴル帝国に次々と使節を派遣した。1245年、プラノ・カルピニはグユクハーンと謁見を果たし、モンゴルの国情を書籍に著わした。パックスモンゴリアのもとでイタリア商人が東アジアに至るようになり、カラコルムや大都をはじめ中国内の諸都市に滞在する者さえ現れた。マルコ・ポーロは約20年にわたった旅行記を口述し『東方見聞録』として残した。極東に至ったヨーロッパ人はそれぞれ誇張も含め、イスラムの国々やシルクロードの国々さらに遠くインドや中国の繁栄ぶりを語り、世界の広大さと豊かさを人々に伝えた。これを伝え聞いた人々はまだ見ぬジパングやプレスター・ジョンに夢はせた。
15世紀、モンゴル勢力が衰退し、新たに整備された官僚制度と強力な軍隊をもつオスマン朝トルコが台頭して1453年ビザンツ帝国を滅ぼし、東西の中間に楔を打つように君臨した。オスマン朝トルコは東西交易による富を独占するために交易品に高い関税をかけ、さらにイタリア諸都市の海軍に勝利して地中海の制海権を得て周辺の経済を支配するようになった。
資産運用の復元オスマン朝トルコが隆盛を極めていたころ、15世紀半ば、ポルトガルとスペイン両国はイベリア半島からイスラム勢力を駆逐しレコンキスタを達成しつつあった。数世紀前からイスラムの支配に苦しんでいた両国は、イスラムへの敵愾心から民族主義が高揚し、他のヨーロッパ諸国に先駆けて国王を中心とした中央集権制度が成立した。さらにこのころ頑丈なキャラック船やキャラベル船が建造されるようになり、イスラムを介して伝わった羅針盤を使用し、両国は撤退するイスラム勢力を追って北アフリカ沿岸に進出するようになっていた。一方、イタリア商人の活動が抑制された結果、ヨーロッパに新たな交易ルートが必要とされるようになっていた。強力な権力を持つ王の出現、イスラム勢力の駆逐、そして航海技術の発展、新たな交易ルートの確保。ポルトガル・スペイン両国は競い合って海に乗り出していった。
初期の航海では遭難や難破、敵からの襲撃、壊血病や疫病の感染などによって、乗組員の生還率は20%にも満たないほど危険極まりなかった。しかし遠征が成功して新しい領土が加えられ新航路が開拓される度に、交易による利益が莫大であることが分かった。健康と不屈の精神、そして才覚と幸運に恵まれれば下層民や貧者であっても一夜にして王侯貴族に匹敵するほどの名声と富が転がり込んだ。こうした"早い者勝ち" の機運が貴賎を問わず人々の競争心を煽り立て、ポルトガル・スペイン両国を中心にヨーロッパに航海ブームが吹き荒れるようになった。