投資信託のコツ教えます
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投資信託の費用と税金
税率や費用などは、税制改正や法改正により変更されることがあります。最新の情報は国税庁や投資信託協会のサイトでご確認下さい。
直接負担する費用と税金 時期 項目 費用・税金
購入時 販売手数料 追加型株式投資信託などは、基準価額に一定率をかけた額。料率はファンドにより異なります。また、同じファンドでも販売会社により販売手数料が異なることがあります。
収益分配時 所得税・地方税 分配金の20%。ただし、追加型株式投資信託の特別分配金は非課税。
途中換金時 解約請求 信託財産留保額 徴収するもの、徴収しないものがある。
所得税・地方税 元本超過額の20%(追加型株式投資信託の場合、個別元本超過額の20%)
買取請求 信託財産留保額 徴収するもの、徴収しないものがある。
所得税・地方税相当額 (特別控除額) 元本超過額の20%の税相当額が徴収される。 (追加型株式投資信託は個別元本超過額の20%税相当額)
間接的に信託財産から負担する費用と税金 時期 項目 費用・税金
購入時 募集手数料 単位型株式投資信託などは1万円に含まれる。 手数料に5%の消費税等相当額が課税される。
毎日 信託報酬 日々信託財産から差し引かれる。 ファンドによって異なる
組入株式など売買時 売買委託手数料 売買頻度、数量によって異なる。
資産運用も海外進出を強力に後援した。15世紀初頭から宗教改革の嵐に晒されていたカトリック教会は相次いで成立したプロテスタント諸派に対抗するため、新たな信者獲得を必要としていた。強固なカトリック教国であるポルトガル・スペイン両国の航海に使命感溢れる宣教師を帯同させ、両国が獲得した領土の住民に布教活動を進めた。
ヴァスコ・ダ・ガマいち早くレコンキスタを達成したポルトガルは北アフリカへの進出を確固とし1415年、ジョアン1世のとき命を受けた3人の王子が北西アフリカのセウタを攻略した。特にエンリケ王子は西アフリカに留まって伝説の『金の山』を見つけようと沿岸の探検と開拓を続けた。ポルトガルは1460年ごろまでにカナリア諸島・マデイラ諸島を探検しシエラレオネ付近まで進出し、さらに象牙海岸・黄金海岸を経て1482年、ガーナの地に城塞を築いて金や奴隷の交易を行った。1485年、ディオゴ・カンがジョアン2世に命じられてナミビアのクロス岬に到達した。
外国為替証拠金取引は船団を率いて困難の末にアフリカ南端にたどり着いた。ディアスはさらにインドを目指したが強風に行く手を阻まれた挙句に乗組員の反乱も起こったため帰路に発見した岬を『嵐の岬』と名づけて帰還した。この成果にインド航路開拓の確証を得たジョアン2世は『嵐の岬』を喜望峰と改名させた。
1497年7月8日、ヴァスコ・ダ・ガマはマヌエル1世に命じられ、船団を率いてリスボンを旅立ってインドを目指した。目的はイスラム商人を排したインドとの直接交易。先人達の知識をもとに4ヶ月で一気に喜望峰に到達したガマは、アフリカ南端を回ってモザンビーク海峡に至りイスラム商人と出会うとインドへの航路に関する情報を収集した。1498年5月20日、ついにヨーロッパ人として初めてインドのカリカットに到着したガマは、翌年、香辛料をポルトガルに持ち帰った。その後ガマは国王の命で遠征艦隊を率いてイスラム勢力と衝突をくり返し、インドとの直接交易を獲得するに至った。ポルトガルは順調にマレー半島・セイロン島にも進出、1557年にはマカオに要塞を築いて極東の拠点とした。その間、1543年にジャンク船に乗ったポルトガル人が日本の種子島に漂着して鉄砲を伝えている。
投資信託は独りポルトガルによって成就されたものではない。イスラム商人は古くからインドや中国さらにモルッカ諸島などと盛んに交易し莫大な利益を得ていたし、アフリカ大陸においても赤道周辺地域まで交易圏を広げていた。西アフリカに成立していたマリ王国はイスラムに金・塩・奴隷を輸出していた。また中国の鄭和艦隊の一部がアフリカ大陸に到達したと言われ、南アフリカのジンバブエの遺跡からはインドやペルシャのほか中国製の綿製品・絨毯・陶器などが出土している。このように14世紀から15世紀までに旧世界における航路はほぼ完成していて、ガマは世界航路にアフリカ周りの欧印航路を加えたに過ぎないのである。
同じころ、ジェノヴァ商人のクリストファー・コロンブスは西周りインド航路を開拓しようと1484年、ポルトガルに航海の援助をもちかけた。既にアフリカ航路を開拓しインドまで今一歩に迫っていたポルトガルはこれを拒否する。
日経225に遅れをとっていたスペインは1486年、カスティーリャ女王・イサベルとその夫・フェルナンド5世(アラゴン王としてはフェルナンド2世)がコロンブスの計画を採用し1492年、旗艦サンタ・マリア号に率いられた船団がバルセロナ港から西に出港した。1492年10月12日、西インド諸島に属するバハマ諸島に到着したコロンブスは翌年スペインに帰還して西回りインド航路を発見したと宣言した。
しかしコロンブスの航海はガマがポルトガルにもたらしたような成果をスペインにもたらすことはなかった。当時のアメリカ大陸は未開の地であり金銀のほか交易に値するものはほとんどなかったうえ、コロンブスが発見したのはアメリカ大陸から遠く離れた群島にすぎなかったからである。頑固で自信家のコロンブスの能力に疑念を抱いたスペイン王は、植民地における反乱や原住民への虐待を理由にコロンブスの権限を剥奪し牢獄に繋いだことさえあった。1501年、アメリゴ・ヴェスプッチがバハマ諸島が北米大陸の東に位置する島々であることを明らかするに至って、コロンブスは詐欺師呼ばわりされ失意のどん底で死去することになる。
FXの隆盛から、コロンブスによるアメリカ大陸発見はガマによるインド航路発見の価値をはるかに凌駕しているが、当時は莫大な実益が期待できるインド航路開拓の評価が断然高かったのである。
進んだ文明国もなく交易品も限られていたアメリカ大陸において、約1世紀の間、スペイン人はアステカ帝国やインカ帝国を征服し原住民を牛馬のように酷使して略奪の限りを尽くし金銀を強奪した。アメリカ航路開拓に遅れをとったポルトガルも、1500年、カブラルがブラジルに到達しその地をポルトガル領に加えスペイン同様に原住民から富を収奪した。
ヨーロッパから喜望峰に至る航海は風向きの関係から大西洋をブラジル沿岸近海まで大きく西に迂回するのが効率的である。このことからポルトガルは1490年代までにブラジルを発見していた可能性が高いとする説がある。アメリカ大陸の発見を公表しなかった理由は、スペインに先んじてインド航路開拓を達成したポルトガルがスペインをはじめとするライバル国に交易の実益を奪われないように国家機密にしたとするものである。
マゼラン(マガリャンイス)スペインの命を受けモルッカ諸島への西回り航路開拓に出たマゼラン(マガリャンイス)はスペイン王・カルロス1世の援助を得て1519年8月、セビリャから5隻の船に265名の乗組員を乗せて出発した。1520年10月、南アメリカ大陸南端のマゼラン海峡を通過して太平洋を横断し、グァム島に立ち寄り、1521年にフィリピン諸島に到着した。マゼランはフィリピンのマクタン島で住民の争いに加担し、同年4月27日に酋長ラプ・ラプによって殺された。その後、部下エルカーノ率いるビクトリア号1隻が航海をつづけ、1522年にセビリャに帰港し世界周航を果たし、地球が球体であることを実証した。帰ってきたのは18名であった。
スペインはこの後もメキシコ(ノビスパン)から太平洋を横断しモルッカ諸島への航路を開こうと躍起になり、ポルトガルと摩擦を起こす。そのさなか、フィリピンは1571年メキシコを出発したミゲル・ロペス・デ・レガスピによって征服されスペイン領となった。なお、フィリピンの名は1542年、当時スペイン王子であったフェリペ(のちのフェリペ2世)にちなみ、フィリピナス諸島と呼んだことに由来する。
1502年の世界地図カンティーノ図(Cantino planisphere)。トルデシリャス条約による分割線が図中左側に描かれているポルトガルとスペインによる新航路開拓と海外領土獲得競争が白熱化すると両国間に激しい紛争が発生した。さらに他のヨーロッパ諸国が海外進出を開始したため、独占体制崩壊に危機感を募らせた両国は仲介をローマ教皇に依頼して1494年にトルデシリャス条約、1529年にサラゴサ条約を締結して各々の勢力範囲を決定し既得権を防衛しようと図った。
しかしこの後、新興のイギリスやフランス、オランダが盛んに海外進出し次第に先行していた両国を凌駕していった。これらの諸国はトルデシリャス条約によって新領土獲得から排除されることを拒み、独自に航海の経験も積んでいたため、新しい技術や地図を使い北の大海に乗り出していった。